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学歴を横軸にとって、所得(勝ち組・負け組)を縦軸にとってみる。
高学歴の勝ち組が第1象限、
低学歴の勝ち組が第2象限、
低学歴の負け組が第3象限、
高学歴の負け組が第4象限となるね。
それぞれの言い分はこうだ。
高学歴の勝ち組は、学歴重要と言うね。
今の自分があるのは過去の着実な積み重ねあってのことって感じで。
低学歴の勝ち組は、学歴関係ねぇと言うね。
俺はやったぜ、お前らにもできるぜって感じで。
低学歴の負け組は、学歴重要と言うね。
俺だって学歴さえあればって感じで。
高学歴の負け組は、学歴関係ねぇって言うね。
だって俺全然しょぼいもん、て感じで。
つまり学歴論争における言い分はすべて、
「俺の過去と現状」について報告しているに過ぎないってことさ。
タイトルだけ書いてさて何か書くことあるだろうかと悩む。
とりあえず、入社する前に1年間は必ず続けることに決めたので、
その自分に対する義務は果たしました。
なので自分の中ではもういつ辞めてもOK。自分の中では、ねw
たかが1年と思うかもしれないけど、今の時代1年はそんなに短くなかったりします。
石の上にも三年と言う言葉がありますが、
三年にこだわりすぎると、時間がもったいなくなることもあると思います。
まぁひとそれぞれ適切な期間というものがあるのです。
でも今の新卒、二卒は、気に入らないとすぐやめる人が多いようです。
それは悪いことではないけれども、あまり良くないと思います。
特にサラリーマンを一生続けるつもりなら慎重にいくべきです。
それは「転職回数」というパラメータがけっこう重視されるという現実があるからです。
転職回数が多い人は、我が侭かもしれないとか、
問題を起こしやすいのではとか、対人関係が下手なのでは、
と想像されてしまう可能性があります。
履歴書と職務経歴書と2、3回の面接くらいでひとりの人間を
きちんと理解することなど不可能なので、
安直なパラメータと言えども決して甘く見るべきではないのです。
今すぐ辞めたくなる気持ちはわかります。
正直言いますと、僕なんて社会人になったその日から
こんな会社辞めてやると思わない日はないと言っても過言ではないくらいなものでw
でも同時に別の会社に入ったとしても同じように辞めたいと思うのは100%わかりきっています。
それはもう今の会社に転職する前もわかっていましたし、
仮に僕がトヨタに入ったとしてもGoogleに入ったとしてもはてなに入ったとしても
100%そういう風に思うという確信があります。
サラリーマンというのはそういうものだという覚悟がいるのです。
食い扶持を稼ぐということは、生き続けるということは、
つらいだろうし耐えなくてはいけないと思うんですよね。
別にサラリーマンが他よりつらいなんて言うつもりはなく、
サラリーマンでさえつらい、ということです。
そしてつらいということはダメじゃないんです。
ネガティブとポジティブってメタにとらえるとどっちがどっちだかわからなくなりますが、
ネガティブなものを否定することはつまらないことだと思います。
ビジネスモデルについてはシンプルなものは良い方法ではないように思います。
シンプルということはわかりやすい、わかりやすいとうことは参入障壁が低いということだからです。
シンプルな仕組みを世に出すと、競合がわっと飛びついて
価格競争、広告合戦、体力勝負の消耗戦になっておもしろくなくなります。
何がしたいのか一見するとわからないような仕組みがいいんです。
お金の流れが見えないのがいいんです。
ああしてこうして、こっちのをそっちに回して、これがこうなった時にそっちをこっちに戻す、
とかそういうわけわからん方が儲かる可能性は高いと。
もちろんハイリスクハイリターンですが。
複雑な仕組みほど環境変化に脆いし、バグが入り込みやすくなります。
なので理屈ではうまくいっても実際はダメダメな場合がほとんどでしょう。
でもシンプルはローリスクで、ローリスクは決してハイリターンにはならない。
リスクが大きい方がスリリングでおもしろいでしょう。
複雑な方が頭の運動になっておもしろいでしょう。
ビジネスモデルはややこしい方がいいんです。
あとは、実際うまく回り始めると絶対誰かしら気づくやつがいるはず。
そいつが真似しはじめて、さらに次々と参入される前に
そのモデルを捨てて次の仕組みに力点を移動できる機動性があればバッチリ。
・・・と思ってます。
中毒性を発見するということはとても難しいと思うのです。
タバコを初めて1本吸ってみて、これはいける!と思えるか、ということです。
周りに誰もタバコを吸う人間がいなかったら、
普通の人間は吸おうという気にはならないはずです。
周囲に中毒性の証拠があるからこそ、安心して手を出せるのです。
信頼感があるからこそはまれるのです。
タバコが世に出て、まっさきに飛びつくアーリーアダプターは変人だ(褒め言葉として)
でももっとすごいのは、変人の存在を見越してタバコを売りはじめた奴だ。
何の根拠もないところからどうやって中毒性を見いだすのだろうか。
下手な鉄砲数打ちゃ当たるなのか、
どんなものでも少なからず依存する人間はいるから
その人間を絶対的に囲い込むマーケティング力なのか、
自分自身が依存してしまえばひとつの実証例となるので当たる可能性はぐんと上がる、
でもコミュニーケーション的中毒性はそもそもひとりでは体感できないし
すべて妄想の中から中毒性を発見するとかどんだけ高級な思考活動なんだよと思う。
ま現実的には確信はまったくないがなんとなくいけそうな気がするレベルのネタを
ポンポン仕掛けて当たればもうけもんと割り切るのが賢い戦略なのかもしんない。
生まれてくる人がいれば死んでいく人がいて
食べるものがいれば食べられるものがいて
得るものがあるということは捨てられるものがあるということで
出会いがあるということは別れがあるということである
人は成長し老いて死にゆくものだから、
その過程の中で新しい命に夢を託し平和を託し
季節は移り変わってゆくものだから
夏が切なく秋が幸せで冬が暖かく春が綺麗なのだ
このような螺旋が描かれているのを見るととそれは完成されたシステムのように感じてしまい
その神秘を疑うことは驕りなのかもしれないとか勝手にそういうことにして
問いを遡って突き詰めることをしないことの正当性を自分自身に言い聞かせる
おそらく螺旋を見ると人の本能があきらめを肯定するのであろう
やめておけ、無駄なことをするなと、遺伝子に刻まれた歴史が主張を始めるのであろうか
変わっているように見えて変わっていないのか、
変わっていないように見えて変わっているのか
同じ事象を観測しているのに男はダメだ変わっていないと焦り
女はなぜ変わってしまったのかと嘆くのだ
でもどう足掻いたって僕らは春を越え夏を乗り切り秋を過ごし冬を迎えた後、終わるんだ
そして、次の春がはじまるんだ
常々思うのだが何故資料を作るのかと言えば
それは情報伝達のためであって
資料単体で完結するものではない
故に資料を完成させることが目的化してはいけない
何かを誰かに伝えたいのだ
どうやって伝えるのか、言葉を話して聴いてもらって伝えるのだ
であれば本来紙や電子データとして目に見えるかたちにする必要はない
話し手にとって全てを口で表現するのは困難であり
聞き手にとって全てを耳で知り理解するのは困難だからである
会議資料、営業資料、といったものは話し手の口をバックアップするためのものである
どういったバックアップが必要なのかは話し手が一番知っている
どういったバックアップが最適なのかは話し手が一番理解している
従って最終的な伝達のための資料、特にその内容については
話し手自身が作るべきである
というのが私の持論である
もちろん資料に必要なデータやグラフ、最終的な資料の素となる文章や
デザイン、画像などは他人に依頼しても良いと思う
しかし言い回しだとか話の流れ順番だとか、そういった部分は
個人の好みや今までのやり方に多分に影響されるものなので、
話し手自身が作り込むべきである
自分が話しやすい資料とは即ち良い資料である
誰だって自分が困るようなことはしたくないので
自分が話すのであれば良い資料を作る
責任範囲をはっきりさせるという意味もある
発表者=資料になれば
資料が糞だからまともな発表ができなかったと言うこともなくなれば
良い資料を台無しにしやがったと言うこともなくなる
できるだけ仕事を独立化できたらいいと思う
独立化すれば効率は落ちるが、モチベーションは上がるはずだ
目的を達成する上で一番の強さは継続力だと私は思ってます。
そして二番目に大事なのが行動力ではないかと。
行動力ってのは始める力、変える意志。
継続力は続ける力、変えない意志。
で、自分には継続は無理だなと感じてます。
あきらめるようなことじゃないんだけど、
無理して継続するよりは、無理せず行動することが
自分的には自然な気がするのです。
継続できなくても行動力でカバーできたらいいんじゃないかな。
ということでこれからは行動力を意識していこうと思ってます。
例えばさ、サイトをガンガン立ち上げるの。
で、いつでもこのサイト売りますよ、て公言しておいて、
儲かってないときは安くして、儲かってるときは高く売るの。
どうしようもなくなったらサイトごと捨てちゃうの。
そうやって自社媒体、自社製品というかたちで持ち続けるんじゃなくて
売るためにサイトを作っていくわけ。
サイトっていうかビジネスモデル自体を製品化するわけ。
でひたすら流動的にサイクルを回して、
ビジネスモデルをブランド化したい。とか妄想。
これだったらぜったい飽きないw
うわそういうのやりてー
誰かにリセットボタンを押されてしまったら
自分だったらどうなるのかなぁ。
あまりにも痛々しい現実を目にしても、
心のどこかで羨んでるなんてきもちわるい。
リセットボタンを自分で押せるひとって、
強いってことなのかなぁ。
守るモノがないってことなのかなぁ。
あるいは執着がないのかなぁ。
ふつうの人間は押せないよ。
溜め込んで溜め込んで電源ぶち抜くひとはいるけど、
なんでリセットできないのだろう。
ひとつひとつ自分の持っているモノを改めて眺めてみると、
別に消えたら消えたでかまわない。
その程度のモノばかりなんだけどなぁ。
自分で捨てる勇気はないんだね。
誰かに燃やして欲しいんだね。
持とうとすることはいいことなのか。
いっぱい持てばそれだけ捨てられないモノが増える。
それだけ悩みの種が増える。
ほんとうに考えなきゃいけないことに頭が回らなくなる。
わかっているはずなのに、ときどき気付くのに、
また明日になれば社会に溶けていく。
持つことが成功なんだ、持ってない奴は負けなんだと、
そんな洗脳に侵されて、また当分帰って来れなくなる。
やれやれだぜ。
無人島に行きたい。
砂漠の真ん中でもいいや。
情報化社会と、資本主義経済が職人を殺していると思うんです。
人間は自分にとって有益な情報を常に求めていますね。
何をすれば利益になり何をすれば損益になるのかって。
つまりプログラマーになってどんだけの利益になるのか、
この仕事続けて将来自分どうなんのよって考えますよね。
アニメーターになってどんだけの利益があるのか、調べますね。
いくら好きって言ったってさ、これやれって言われてその通りやるのは
あんまり面白そうには思えないですよね。
そういう現実とかよくわかるようになっちゃったのは
マスコミのおかげだしインターネットのおかげだし情報化の流れなんですよね。
そういう現実見てたらさ、あるいは自分の将来想像してみたらさ、
例え絵を描いてるのが楽しくっても、どうかなって思うよね。
実際、何人の人間が専門学校通ってて、
そのうち何割がその仕事にありつけて、
そのうち何割が満足してるの夢実現してるのって
ちょっと考えてみりゃ非合理的な賭だって気付く罠。
それでも強い意志でもって貫くのは格好良いし、
それだけの自信があるならすばらしいと思います。
けど逃げてるだけだったりもするよね。残念ながら。
ポータブルスキルと呼ばれているものがあります。
どんな仕事でも通用する能力のことです。
コミュニケーション能力だとかリーダーシップとか、
タスクマネージメントとかそういうのです。
資本主義社会にあってもう確立されちゃってる技術です。
クリエイター職は営業なり経理なりマーケなりよりも人気あります。
が、待遇は良くない。実際道具のように交換可能な部品として見られてたりします。
今の時代、職人は末端なのです。ええ私も吐き気がします。
そもそも甘いと、下積み10年20年はあたり前じゃないかと、いう見方もあります。
それに耐えられるなら別段問題はありません。
でも変化する経済社会、変化する人間関係、高速化するビジネス、
振り回されて振り落とされて残るものは何か。
現代の職人に必要とされるものは、
忍耐力とプロモーション力と思います。
でもそんなん学生の時は全然見えないし、見ようとしないだろうし。
日本人には職人気質が多いらしいのでけっこう大きな問題です。
今までも何度かMTの管理画面開いて数行入力してみたことはあったのだけれど、
なーんも身のない話ばかりで、これを見せる意味は果たしてあるのかと考えてしまうと、
どうしても×ボタンを押してしまいたくなるのです。
書くネタならそこそこあるけど、書いてどうするんだろう、みたいな。
書くのって時間かかるし。特に人に見られることを意識するとね。
どうしたいの?という問いに対して答えたくても答えられないというか。
書くだけでいいとは思うんですけどね。その後どうこうとかでなく。
でも何故か時間割く気になれないんだなぁ最近。
まぁ私は飽きっぽいというか、何事も続けることができないのです。
つまりやらないを続けることもできないわけで、そのうちやるんですけどね。
最近、読書をはじめました。半年ぶりくらいに。
数えるのも怖ろしいくらいに読んでませんでした。
それでも何かはしているわけで、あれをやめてこれをやって、
今度はこっちをまたはじめてその代わりにあっちはやめて・・・
そんな繰り返しで時間が過ぎていく。いいのかなぁこんなんで。
続ける力が一番の強さなんだと思うのです。
続けるからプロになれるのではないだろうか。
この年になるまで気づかなかったとても重要なことがあります。
同じことをただ繰り返すこと。
私は冗長なのがとても嫌いなので、
繰り返すことを可能な限り避けて生きてきました。
繰り返すことで体に憶えさせる、というのがわからなかった。
わからないふりをしていただけなのかもしれない。
繰り返し繰り返しひたすら繰り返せば考える必要がなくなる。
考える前に体が動く。
今思えば、考えるのが好きなのは、繰り返すのが嫌いだからなのだなぁ。
でもいちいち考えてたら時間がかかってしようがない。
スピードとか確実性とか考えたら、
一回一回考えてる方が無駄なのです。
脳の意識的な部分、特に言語領域を過信しすぎるのはよくない。
言語化できない部分に染み込ませた方が全然楽なのです。
そもそもすべてのことが言語化できるわけでもないですし。
ああなんかまだいろいろ消化不良だけど今日はこの辺で。
